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無題

 

 月明かりがうるさく目が覚めた。窓のカーテンから細い光が伸びている。私と、横で眠るラシードの顔へ、真っ直ぐ。まるで、天からの迎えのように。
 ――こいつはダメだ。
 咄嗟に手で光を遮った。継ぎ接ぎの手は、より青白くなった。

 この手が表す通り、私の身体は死者だ。時は止まり、明日にでもすべてが停止してもおかしくない。その事実を忘れることは難しい。あまりにも世界は、私と違いすぎる。生と死の隔たりを、生きた者が正しく理解することが出来ようか。生きることに誠実であれば、尚更に。

 月が雲に隠れたのをきっかけに、半身を起こして寝顔を拝む。褐色の肌はうっすらと水気をまとって、僅かな光を頼りに煌めいている。普段よく動く口は柔く閉じられ、優しさを絶やさない瞳は瞼の裏だ。呼吸音がなければ、まるで死んでいるようだ。
 もしも、このままにできたら。死者の手が、誘われるようにラシードの頬を撫でた。

 ビジョンが見える。太陽の様に光るラシードの魂が。それを私の手が奪う。そうすると、此奴は二度と目覚めなくなるのだ。呼吸だけの生死の狭間の存在になり、私だけがその痛みを知る。時が進み続ける世界の中で、私に最も近い存在になるのだ。それは酷く、残酷で、心地いいだろう。

 ふと、聞こえていた呼吸音が変わった。生者の呼吸だ。急いで手を引っ込めたが、時すでに遅しだった。
「眠れない?」
 うっすらと開かれた目がこちらを見ている。同時に、霧のように感じていた彼の身体が、みるみる強烈な質量をもった。起きることも、話すことも、人を慈しむことも、生きてこそできることだ。一体どこに奪う意味がある。
「ん。ごめん、驚かせた」
 動揺する私を助けるように、雲が晴れて青白い光がまた部屋に差した。ラシードはゆっくり起き上がると、その月を見上げた。
「悪い夢でも見た?」

・・・・・・そうだな」

「どんな夢?」
「とても幸せで、安心のできる夢だ」

「聞く限り、いい夢だと思うけど」

「ダメなんだ。お前の不幸の上に成り立っていたから」

 少し押し黙って、へえ、とだけ返ってきた。

「お前には、楽しんで生きてほしい。そう思っている」
 息を吞む音と共に、ラシードはこちらに振り返った。月明りを背にした彼の顔は見えない。だが、光で曖昧になった彼の身体の線は、まるでその中に飲まれていくようで。または、誘われているようで。

 ベッドから抜け出し、窓際まで行ってしっかりとカーテンを閉めた。腕の中のラシードは、ぼんやりこちらを見上げている。

「寝るぞ」

「旦那」

 漸く邪魔者がいなくなったのだから、今はとっとと寝るだけだ。何か言いたげなラシードを抱きかかえ、無理くりベッドに放り込む。

「明日早いんだろ」

「そもそも起こしたの旦那・・・・・・わぷ」

 よくしゃべる頭を胸に引き寄せてやれば、予測通り大人しくなった。温かな体温が私に移ってくる。これなら直ぐ眠れるだろう。

・・・・・・勝手なんだから」

 その声は、聞こえないフリをした。