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リク募

「へえ、三味線かァ」

 長谷川はお猪口片手に言った。スナックお登勢の夜はまだ始まったばかりだったが、彼はすっかりへべれけである。店にいる客はたったひとり。静かな空間は、外の音もゆるりと迎え入れた。三味線の音色は、スナックの二階からだった。

「え、何。銀さん三味線弾けたの」

 酒が入ればあることないこと語る銀時ではあるが、楽器の類の話を長谷川は聞いたことがなかった。演奏する姿を想像してみたものの、どこか胡散臭く思えた。話を振られたお登勢はいやいやと手を振る。

「こんな凝ったのがアイツから出てくると思うかい」

 ちげぇねェ、と大きく猪口が傾く。時に正しく、時に激しく、ふいに抜いたと思いきや、まるで朝露が落ちるように一音。よっぽ嗜んでいる者でなければ成せない業である。

 お登勢は曲名を知っていたが、今ここで知識をひけらかすことほど無粋なものはないと思った。

「酒と粋な三味線ね。俺には出来すぎてて怖いくらいだ」

 長谷川も長谷川で、万事屋には色んな人がやってくるからと諸々の匙を投げた。酔った頭には、多少煩雑なくらいが格好よく感じた。

 一曲が終わった。二階の窓はどうやらしっかり開いているらしく、拍手の音や何となくの会話まで下に聞こえてくる。興奮気味の声が、何やらわいわいと喋っていた。

 やがて、新しい曲が流れ始めた。はて、と先ほどまで聴き入っていたふたりは首を傾げる。覚えがあるような、ないような。

『お登勢様、長谷川様、耳をふさいだ方が宜しいかと』

 コップを磨いていたたまが淡々と警告した。どういうことだ、と問う前に正解が爆音でやってきた。

 志村新八、三味線アレンジで歌う「おまえの母ちゃん××だ!」である。

 時に正しく、時に外し。結果、殆ど間違った音程が夜に響く。

「うーん、脳天にがつんとくる」

「安心しな。もうすぐ止むよ」

 言葉通り、新八リサイタルは途中で止まった。派手な打撲音と共に。

 十七点、とたまが店のカラオケボックスのことばを読み取った。やれやれとお登勢が肩をすくめる。

 口直しか、別の曲が流れてきた。今度はお登勢も長谷川も聞いたことがなかった。ゆったりとしたテンポで、ノスタルジックな雰囲気がある。

 と、今度もまた途中で止まった。そして、慌ただしく階段を降りる気配があった。

「大変アル! 中二が銀ちゃん泣かせたネ!」

 突然飛び込んできた神楽はそういうと、何とかしろと長谷川の首根っこを掴み激しく揺らした。

「だから私はあんな甲斐性なしダメって言ったアルよ!」

「神楽ちゃんおちついて、おじさん吐いちゃう」

「死刑か酢昆布五年分の刑を所望しますサイババァンチョ!」

「もっぺん言ってみなゲロと一緒にゴミ袋に詰めるよ」

 一気に店内はてんやわんやだ。怒りに任せて騒ぐ神楽。叱咤するお登勢。寸前の長谷川。モップを構えて片付ける気満々のたま。爆笑するキャサリン。よもや数刻前まで風情を楽しんでいたとは誰も思うまい。

 と、その中へ異議ありといわんばかりに突入する男がひとり。

「神楽ちゃん、責めたくなる気持ちはわかるけど、そこまでだよ」

 そう新八が言えば、神楽は切なそうに彼のほうを見た。全てを知る男は、眼鏡を軽く上げたのち、優しく少女の肩へ手を置く。彼の腹の部分に蹴り跡さえなければ、とても決まった画だ。

「あの人、罪悪感で三味線壊そうとしてるから一緒に止めよう」

「知らないネ。あんなの壊れたほうが……」

「神楽ちゃん、あの三味線、家賃三年分はするよ」

 ぱっと手を離された長谷川は地べたに落ちた。先ほどまでの激情が嘘のように神楽は真顔である。そして、新八と共に店を出ていった。

「私も悪かったネ。軽い気持ちでMOTHERの『ポリアンナ』をリクエストしちゃったから」

「そうだね。屈指の名曲だもんね。僕も泣いちゃったよ『ポリアンナ』」

 去り際のふたりの台詞を、お登勢は呆然と聞いていた。

 

 日付はとっくに過ぎている。

 店の外はひっそりとしており、お登勢はもう客が来ないことを察した。キャサリンは潰れた長谷川の介抱、たまはツケの細やかな会計と、ゆるやかな店じまいが始まっていた。

 ふと、また音が鳴った。

 ただはじくばかりで、どの曲ということもない。しかし、今日の中では一番気持ちのこもっているものだとお登勢は思った。まるで慈しむような、静かで、優しい響きだった。

「まったく」

 聴いちゃいられないね、と小声で続いた。