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さして一興

 山から山へ、水から水へ。来る日も来る日も渡り歩いてきた。何処に行っても、良い扱いを受けたことはなかった。当然だ。まだ力も弱い餓鬼とはいえ、よそ者をおいそれと歓迎する方が馬鹿だ。元より残酷な仕打ちは覚悟の上。京にいた頃と比べれば何倍もマシだ。

 そうして、幾つかの春を迎えた先。俺はとある山に希望を見つけた。その山には自分が長だなんだと騒ぐ神や大妖怪もおらず、それぞれの妖が各々暮らしているような珍しい場所だった。何より気に入ったのは、人里のある現世と、俺たちが住む常世との結界の霧がしっかりしているところだ。異形の者たちにとって、自然や生き物から得る生気はそのまま生きるための力となる。取り分け、人の感情から生成される生気は極上とされるが、移ろいやすく、そして儚い彼らの心を無闇に弄るのは俺の好かぬ所だった。なので、付かず離れずの距離を保っている此処は理想も理想であった。

 住めそうな場所は、山のそこかしこに点在していた。悩んだ末、一本の大きな桜が近くにある静かな池を選んだ。鏡のような水面に迷いなく飛び込む。鱗のひとつひとつにまで、みるみると力が漲った。長い旅だった。これからは、此処で。

 と、池を乱す大きな波紋がそばで起きた。振り向くと、白い毛玉がいた。

「~~~~~~っ! っ! ⁉」

 どうやら泳げないらしく、水の底で絶望の形相のまま暴れていた。折角の清らかな池を、毛だらけにされるのも癪だったので、手を伸ばしてやれば直ぐ捕まってきた。俺と同じくらいの手の大きさだった。

 

「あっ……ごっほごっほ、おえっ鼻に、ひゅーっ、待って耳、片方水、あぐっ、げっほげっほげっほ、おあ゛」

 陸に打ちあげられた毛玉、もとい妖狐は、桜の下で反するように醜く苦しんでいた。目鼻口もれなく水が漏れ、自慢であろう大きな一本の尾も情けなくしぼんでいる。仕方ないので、隣に座って背中を叩くくらいはしてやった。警戒心がどこかに飛んでいくくらいには、俺はこいつを哀れに思っていた。

 まだ絶え絶えの息で、坂田銀時、と妖狐は名乗った。

「新入りが、来たって聞いたから。はーっ、ご挨拶ってやつ」

「随分なご挨拶だったな」

「いやほんと助かったわ。水面覗き込んだ時にコロンからのドボンよ。自分の体重におけるしっぽの比率舐めてた」

 妖狐といえば、秀でた者は九尾となりて現世に祀られることも多い大妖怪の種だ。しかしながら、目の前にいるこの男は只の金槌の馬鹿だ。オマケに、昨日今日やってきた余所者の俺に対してご挨拶とは、稀代の大馬鹿だ。

 どうせなら、己も馬鹿になりたくなった。

「高杉晋助だ」

 今度は丁重の意味で手を差し伸べる。銀時はにべもなく受け取った。

「お前は……高杉は、蛟か?」

「まァそうだが」

 ふうん、と目線が俺の竜の半身へ向く。大体の妖は厄介な力を持つが、特に蛟の種はあまり好かれていない。生み出す毒は、現世も常世も関係なしに永劫の苦しみを与えることができる。ただ、万事遣い様であることは確かだ。命を奪うという行為であれば、鬼共のほうがよっぽどやらかしている。何より、コイツが俗説に乗っかる男とは感じえなかった。

「みず、どくタイプ……ドククラゲか」

 そらみろ。意味が分からねえ。

「俺は海月じゃねェ」

「クズモーのほうが良いか? 進化したらみず、ドラゴンだもんな。めっちゃ共通点あるじゃん。やったな」

「おいふざけてんのか」

 何だコイツは。尾が乾くのと同時並行で、脳みそもふわふわになったのだろうか。

 腹を立てる寸前、ふと、木々が揺れた。春風だろうか、と周囲を見渡すと、大柄な男の姿が近くにあった。外見、服装に尖った箇所はなく、一瞬里の人間かと見間違えたが、直ぐに訂正した。これまで会ってきた妖とは違う何かを感じたのだ。

「松陽」

 これまでずっと気怠い表情だった銀時が、初めて頬を温かくした。熱を抱いたまま立ち上がり、まるで雲のように大柄の男の所へ流れていった。

「初めまして。この子がお世話になりました。銀時、きちんと仲良くなれましたか?」

「オウよ。ギザギザ模様の僕のベストフレンドだわ」

「なってねえ」

「おやおや。僥倖僥倖……。申し遅れました。私は吉田松陽。君と同じ流れ者でしたが、数年前から銀時とこの山に住んでいるんです」

 銀時が俺を指さす。

「コイツ高杉な。タカスギシンスケ君」

「こら、失礼でしょう」

 会話のやりとりこそ親子然としているが、とてもこのふたりに血のつながりがあるとは思えない。種としての見た目もさることながら、単なる血縁だけではなり得ない絆に等しいものを感じたからだ。あれだけ掴みどころのなかった銀時が、松陽のそばだと危ういほどに年相応に見えるのが何よりの証拠だった。

「私たちの家はこの先にあります。落ち着いたら遊びに来てください」

「はァ」

「霧が一等深いところです。すぐにわかりますよ」

 ではお暇しましょうか、とあっさりふたりは去っていった。

 心を鎮めるため、池の奥底へ身を任せる。生きていることを幸福に思った。もっとおかしいと思うべきだった。こんな恵まれた土地を、他の妖たちが見逃すはずはない。然しながら、此処には統べる長がいない。否、いるという概念を覆されてしまったんだ。あの松陽と呼ばれた男の手によって。でなければ、ほんの数年前に流れてきた男が纏う気と、山全体を囲む結界の気が同じな筈がない。一体、あの陽だまりのような顔の下で何をしたのだろう。腹の内でどう考えて居るのだろう。そして、あの銀時という妖狐も。

「遊びに来てください、ねえ」

 上等だ。とぼけたふりして俺の品定めをしたのだ。こちらにも知る権利がある。化かせるのも精々今のうちだ。

 決意を込めて俺は大きく翻った。水は優しく抵抗してくれた。