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萌芽

 松陽に会う前の俺は、今思い返すと意識というものが軽薄だったように思う。きっと、神様か誰かが自分の懐に入れていたんだろう。お陰で、痛みも悲しみもなかった。どこに恨む必要もなかった。ただ、やたらに生きる必要があった。そんな頃。

 俺は屍の転がる戦場に居た。派手にやったらしく、そこかしこで焼け跡が燻っている。遠くには、撃ち落された天人の船。正確に判断されたかは知らないが、死体の割合を見るに、敗北は地球人側だろう。

「よお」

 暫く漁っていると、腹を斬られ仰向け状態の人間に声をかけられた。死に損ねた奴に声をかけられるのはそう珍しいことでもなかった。天人と勘違いして殺しにかかる者もいれば、仏の使いだと涙する者もいた。俺は、誰にとっても何でもなかった。だから、どう思われようと勝手だと思っていた。

 男は三十そこらに見えた。肌は土気色。こちらを舐めるように見つめる目は、涙袋が分厚く、深い影が落ちていた。

「その歳で白髪たぁ……生意気だなぁ。俺のほうがうんと苦労してるってのによ」

 そのまま、つらつらと身の上話が始まった。しかし、内容はあまり覚えていない。誰も俺の支持を聞いてくれなかった、とか、他人のことを責めてばかりいたような気がする。

 一頻り語りつくした後、男は軽く笑って、大きく息を吐いた。傷口から、血が軽く噴き出した。

「嫌になるなぁ、嫌になるなぁ」と、唸り声。

 そして、徐に近くにあった脇差を引っ張ると、切っ先を自分の首にあてた。

「ホントはなぁ、とっととくたばりてェんだがよォ、痛くてな、起きちまうんだよ。だから、お前、ちょっと力を貸してくれよ」

 俺はようやくそこで自分が持っていた刀から力を抜いた。そして、男のそばにしゃがみ、柄に自分の手を添えた。手がごつごつとしていて大きかった。指先は冷たいが、甲のあたりは僅かに熱があった。

 血は溢れるだろうが、腹を斬られている以上、着物は使い物にならないだろう。

 瞼が痙攣する。

 そろそろ日が落ちる。

 腕が震える。

 腹に何もなくて痛い。

「ありがとうな」

 一気に力を込めた。

 

「もうわかんね。『お』ってこんな字だっけ。もっとこう、シュッとしてなかったっけ。なんでこんな中途半端な位置でクルっとするのコイツ」

「がんばれ銀時。あと八頁だぞ」

「も~やだ~」

 時は巡り、夕暮れ時の松下村塾。とっくの昔に授業は終わっているはずの時刻。俺はたまりにたまった書き取りの宿題をまとめてやる羽目になっていた。普段なら飛んで逃げるところだが、今日は松陽に人質をとられていた。戸棚にずっと隠していた大福だ。たまたま遊んでいた猫が、お偉いさんの逃げた愛猫だったらしく、お礼にと貰ったものだ。二つしかなかったので、大事に食べようと隠していたのに、松陽は目ざとく見つけたらしい。

「日が落ちるまでに宿題を終わらせなければ、もうひとつも私の腹の中ですよ」

 授業終わりに教室でそう宣告された俺は、膝をついて咽び泣いた。魂のシャウトだった。

 こうして地獄の時間が始まった。教室には、俺と、手伝いという名のお目付け役を頼まれたヅラのふたりのみ。進捗は、あんまり良くない。

「いらないんじゃねーの。『お』なんて。いっぱいあるんだから困らないって。あっでもおっぱいをいう時困るか。っぱいになる」

「痴れ者が。そもそも『お』は母音といって俺たちの言語になくてはならない……」

「えっヅラって巨乳派? 御免な、いらないなんて言って」

「っぱいから離れろ!」

 そういや『俺』っていうのも困るのか。今回は免除してやろう。じゃねぇや。

 外を見れば、もう塀から日を拝めることが出来なくなっていた。俺を見下ろす俺が、あーあと落胆する声が聞こえる。松陽、なんて顔するかな。拳骨が貰えれば御の字だな。今日の晩御飯、松陽の好物にしようと思ったのにな。俺からの責苦は止まらない。

「どうした?」

 筆が止まった俺に気づいて、お目付け役がそれは心配そうに聞いてきた。

「ずーっと書いてたから、手首がちょっと痛ェだけ」

「……見せてみろ」

「は? いいって。怪我してるわけじゃねェし」

「銀時、見せろ」

 しまった。ごまかせたと思ったが、また別の厄介を呼んだらしい。ヅラの表情は真剣そのもので、絶対に引かない姿勢だ。まあ、手首が若干おかしくなったのは本当なので、嘘はついていないが。むず痒さで言えば、ごまかした内容と同等、それ以上かもしれない。

 右手をおずおずと差し出す。握られると、出来かけの手豆の存在を感じた。

「道場に来ないと思ったら、まだやってたのかよ」

 覗いてきたのは高杉だった。畜生来やがったか、と思った。

「書き取りで手首を少々痛めたらしい。今日の勝負は諦めろ高杉」

「はん、慣れねぇことするからだ」

「るせぇ」

 馬鹿にされて、本当にバカらしい気持ちになってきた。途中までは頑張ったが、いっそのこと全部燃やしてなかったことにしてやろうか。中途半端に認めてもらっても、なんら嬉しくない。情けないだけだ。

「はあ……ヅラ、その馬鹿の手寄越せ」

 高杉はそう言って、俺の後ろに回ると、右手で俺の手を包んだ。

 「筆をとれ」という命令に、大人しく従う。一日に二度も優しく手をとられたもんだから、多分動揺していたんだと思う。

「竹刀みてェに筆を握るから無駄に疲れるんだよ。俺の力に合わせろ」

 するり、と筆が走る。驚くほど楽だった。逆上がりができなかった奴が、コツを覚えた瞬間、何度もできるようになったような、そんな感動があった。

 あっという間に完成した一頁を、ヅラが嬉しそうに掲げた。

「銀時、いけるぞ! 高杉、そのまま手伝ってやってくれ」

「応」

「お、応⁉ もう充分わかっあっだだだだだだ」

 振り解こうとしたが、逆に強く掴まれてしまった。痛いのはマジだってのに。悪化したらどうするんだ。

「こっちのほうが早ェだろ。大福、諦めんのか」

「そうだぞ。楽しみにしてたんだろう」

 ふたりのその言葉で、なんとなく、俺の思っていたことを、こいつ等は分かっているんじゃないかと気付いた。

 

 縁側で、松陽はのんびりと俺を待っていた。お目付け役ではなく、高杉も提出に付いてきたことに驚いていたが、直ぐ笑顔に変わった。

「よくできました。この通り無事ですよ」

 松陽が懐から取り出したのは、ラストの大福だった。嬉しくて、受け取った瞬間かぶりついた。

「ん~ま……」

「一口かよ。意地汚ェな」

「もがもごもごもまご」

「飛ばすなよマジで汚ェ!」

 よく味わって、ごくりと飲み込む。よっぽど間抜けな顔だったのか、松陽もヅラも、怒ってた高杉も笑った。その時だった。昔介錯した男が最期に発した言葉を、花が咲くように思い出したのは。

 目配せをすれば、ヅラも高杉も真面目にこちらを見た。

「ありがとうな」

 零れるように呟いたその音は、あの男の声とダブっているように聞こえた。おかしな話だ。死と生、涙と笑顔。真逆とも捉えられる今が、どうして被るのだろうか。これは果たして、俺の気持ちなんだろうか、それとも、あの時の男の気持ちなんだろうか。ただ、ことばを借りたことで、俺を真っすぐに伝えられた。ふたりを己の中に入れることが出来た気がした。なんて幸福で、なんて苦しいんだろう。

「明日、朝一で勝負しろよ」

「望むところだ」

「俺が来るまで始めるなよ、銀時」

「わあってるって」

 人ならざる俺を受け入れたあの男も同じだっただろうか。苦労して、挙句死を目の前に、己の希望を受け入れた獣をどう思ったのか。分かるはずも無い。が、どうか自分と同じであってくれと俺は切に願った。