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オアシス

 

 金色のシャンパンが銀時の目の前に置かれた。細いグラスの中で、ぷちぷちと炭酸が弾けていた。銀時は思わず顔を綻ばすと、誰もいないカウンターに礼を言って客室へ戻った。十五畳ほどの空間には、一人掛けソファが四つ、机に向かい合うよう対に置いてある。そして、左右の大きな窓に映るのは、果てない宇宙の景色だった。
「プライベート船、最高!」
 誰もいないことに気を良くしたか、その座り方たるや粗雑だった。狭い三人掛けシートなんざクソくらえ! と悪態も忘れない。
 シャンパンが太い喉を通っていく。まるで水のように流れていったそれは、あっという間になくなった。
 グラスが机に置かれるまでに、またひとり客室に来る者がいた。
「まったく、まだ乾杯してないぞ」
 銀時と向かいになるように、桂がソファへ腰掛けた。その手には、ボトルの赤ワインと口の広いグラスがある。
「固いこと言うなって。この荘厳な景色の前ではちっさいことだと思わんかねチミ」
「チミじゃない桂だ。まあ、些末であるのは確かかもな」
 数多の星が、無音の宙の中で輝いていた。今は遥か遠くだが、ひとつひとつが呼吸する生命である。強烈な光は、船の窓まで余すことなくぶつかっていた。次々と命が見え隠れを繰り返す。向こうがその気になれば、この小さな船ごと俺たちは押しつぶされてしまうのでは、と銀時は思った。自分がここに生きていることへの恐怖が、彼の胸を浸食していった。
 数分ほど、二人は黙っていた。それを気にしてか、突然船内アナウンスの音が鳴った。
『え~本日は本船をご利用いただきまっこと……、アハハハハ、盛り上がっちゅーか~?』
 呑気な辰馬の声に、銀時と桂は思わず顔を見合わせた。安堵の笑みがふたつ漏れる。銀時はソファの肘にある電話のマークがついたボタンを押した。
「むず痒くていけねぇや。だだっ広すぎてどこを見ればいいかわかりゃしねぇ」
 桂も深く腰掛けながら同種のボタンを押す。
「どうにも俺たちは宇宙の嗜み方がなっとらんようだ。お前と違ってな」
『オウオウ。後で手取り足取り教えちゃる。待っちょき~』
「おいコラ辰馬。自動操縦ちゃんと確認してから来いよ。頼んだぞ」
『金時は心配性じゃのぉ』
 もう一度観た窓の景色は、まるでテレビの中継のように安全なものだと銀時は思った。あとはうんと酔っておけば、なんてこともなくなるだろう。文字通り酔狂に楽しめる筈。しかし、自分のグラスに酒はない。
「ヅラ、そのワインここにくれよ」
 銀時はボトルを奪おうと手を伸ばした。が、寸でのところで桂が自身の胸元にボトルを引き寄せる。空を切った手がぷらぷらと舞う。
「分けてやるのはいい。むしろ喜んで注ごう。しかし、せめてグラスを新しくしろ。味が混ざるだろう。不純異性交遊はお母さん認めません!」
「何が見えてんだ」
「なっ、まさかそんな激しく」
 銀河よりも彼方へ行った友に銀時はドン引きしていた。折角の時間だというのにツッコミで疲れるわけにもいかず、また貰いに行くのも更に面倒だ、と諦めた。
 カウンターに続く扉が開いた。徳利と猪口を持った高杉であった。銀時は皮肉たっぷりに口角を上げる。
「つっまんね~なお前は。宇宙に来たってのにいつもの酒たぁ。たまには変わったの呑んだりしてみねぇの?」
「生憎そういう甘っちょろい考えは持ち合わせてねぇよ」
 高杉は銀時の横に座った。銀時は、とりあえず否定はしてみたものの、自分の口がうっかり日本酒を求めていることに気づいた。きっと可也の辛口であろうそれを、どうしてか欲しくてたまらなくなった。
 一瞬の手管で、銀時は高杉から徳利を奪って自分のグラスに並々注いだ。
「おい、不純異性交遊のふしだらな乾杯はいかんぞ銀時!」
「混ざってんのはお前。くぁーっ、きっつ……」
 心地の良い酩酊が一気に銀時を纏った。頭部だけ無重力になったかのような、意識はあるのにないような、そんな曖昧が。
 三度目に覗いた宙はただ美しいのみだった。ゆっくりと進む景色を阿呆の如く幸せに思いながら、銀時はつぶやいた。
「そういや……この船、どこ向かってるんだっけ」
 宇宙旅行だったよな、とか細い声は続ける。そもそも誰の誘いだったか、彼は上手く思い出せない。
「商店街のくじ引きで当てて、喜んで乗ったはいいけど辰馬が……あれ。何星だっけ、ねえ」
 高杉がくつりと笑う。
「しっかりしろよ、銀時」
 そして、銀時の頭を掴むと、窓へ勢いよく押し付けた。何を、と乱暴を問い詰めようとする銀時の怒りは、眼前の景色に霧散した。
 青い表面、覆う白い雲。何度も愛でてきた丸い月。そして数多の憎たらしい船、船。
 間違いなく、地球であった。
「あ……」
 銀時は既に重力を感じられなくなっていた。もしや、ここはもう船の中ではなく、外に放り出されたのでは? それほどまでに、彼の目は地球以外の存在を映そうとしなかった。
「どこにも行かねぇよ。お前はあそこで俺に殺されるんだ」
 名前を呼ぼうとするも、震えた口では叶わない。
「もうひとつ、席がなかったことは、褒めてやるべきか、怒るべきか。手前で考えな」
 強い揺れが起きた――

「銀ちゃん、銀ちゃん、そろそろ起きるアル」
 うんと重たくなった瞼が、ゆっくりと開く。
 神楽が当てた宇宙旅行の最中、坂本辰馬との再会を果たすも、ハイジャックの末船が辺境の星へ不時着。不運は更に続き、快援隊の救助の最中砂蟲に襲われ……。そんな疲れがどっと来たか、銀時は辰馬を救助後は地球に着くまで寝ることに決めたのだ。お誂え向きの仮眠室には、神楽と新八と定春、そして辰馬の姿があった。
「なんかブツブツ言ってましたよ。夢でも見てました?」
 水どうぞ、と新八がコップを差し出す。銀時はベッドから上半身だけ起こすと、気怠そうにそれを受け取った。
「見たような……ないような」
「それはきっと悪い夢ぜよ。忘れて結構」
「お前がまた事故りそうだったことだけは覚えてる」
「アハハハ、忘れろ忘れろ」
 窓からは、大きく地球が見えた。はしゃぐ神楽と、胸をなでおろす新八。水を一気に飲み干した銀時も、ようやく眠気眼から覚めた。
「しっかし、漸くお前と宇宙に行けたっちゅうんに、とんだ旅行になってしもうたのぉ」
「ああ、全くだよ」
「どうじゃ、近いうちにやりなおさんか? あのメガネ君とチャイナさんも連れてってもええぞ」
「遠慮しとくわ」
 間髪入れず、銀時は答えた。
 その手は、無意識のうちに木刀を強く握っていた。