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嫌いなもの

 学校が終わったら、ダッシュで俺の家に帰ってラスボスに挑戦する。そういう予定だったのに、放課後になった瞬間、知らない男の先生が教室にやって来て古市を呼んだ。委員会の相談か? と古市は廊下の先生のそばへ駆け寄った。俺は渋々席で待つことにした。

 ふたりはこっちに聞こえないくらいの声で話始めた。なんとなく、委員会の何かじゃないんだろうなとそれで思った。同時に、先生を嫌いだと感じた。

 

「先生は古市くんと相談があるから、男鹿くんは帰ってもいいですよ」

 三階の空き教室の前。ここに来るまでに俺に一言もなかった先生は、笑顔で俺に告げた。帰ってもいいではなく、帰れという意味なんだろう。

「ここで待つんで」

 適当に答えてやれば、笑顔が一瞬剥がれた。俺のことを厄介で、面倒な奴だと思ってる人間の顔だった。

 こんな奴が古市とふたりだなんて、冗談じゃない。

「長くなりそうだから、今日も暑いし、ね」

「平気っス」

「男鹿」

 隣にいた古市が俺のシャツを引っ張った。そして、そっと耳打ちをしてきた。

「一旦帰ったふりしとけ」

 ここにいてほしい、という意味だった。

 

 降りたばかりの階段を、音を立てないようにそっと上がる。姉貴曰く、俺は常に殺気むき出しとのことだが、あの先生が感じ取れるはずないだろう。弱そうだから。

「何を話していたんですか?」

「ああ、勝手にゲームクリアすんなって。そんだけですよ」

 廊下からでも声はよく聞こえた。どうやら気づかれていない。”あんみつ”作戦は成功だ。

「本当に仲がいいんですね。男鹿君と」

「そうですね」

 それから暫く、どうでもいい会話が続いた。いつから俺と仲がいいだの、勉強はきちんとできているかだの、悩み事はないかだの。古市はすべてに当たり障りなく、短く返していく。繰り返していくうちに、初めは関心があった様子の先生の反応が鈍くなっていった。求めている会話ができない、イライラした感情が声色から察せられた。

 初めから分かっていた。要するにあいつは、俺をひとりにしたいんだ。だから古市を仲間に加え入れたい、と。

「あほらし」

 心底あほらしい。俺がどう思われようとも興味はない。腹が立つのは、古市が軽い存在に見られていることだ。確かにあいつはアホだし、誰にでも良い顔をしている。だからといって、簡単に懐に入れると思ったら大間違いだ。そういう意味では、先生の方がうんとアホだ。

 低い唸りが教室に響いた。

「もう遅いですから、単刀直入にいきます。先生は心配しているんです。古市君のような人が、男鹿君のような、粗暴な人と一緒にいることに。最近はあまり問題を起こしていないようですが、冬のことで傷ついている子もいるんです。

 古市君、本当に何もされてないんですか」

 返答はない。

「あっという間に三年生になります。受験のことも考えないといけません。大切な時期に、問題が起こったら思うと」

 頬にちりっという感覚が走った。あ、ヤバい。

「とにかく、男鹿君のことは先生たちに任せて、古市君は――」

「せんせーい! 古市まだっスか!」

 勢いよく扉を開ければ、先生は飛び上がって驚いた。古市はというと、強く握られた拳を机の下から抜き出す直前だった。

「あー、男鹿君……いや、うん。終わったよ。古市君、もういいですよ。ありがとう」

「……そうですか。失礼します」

 古市はすん、と温かさを張り付けて言った。

 

 帰り道。日はもう沈む寸前だった。早い家ではもう明かりがついていたりもした。

「俺も不良になっちまおうかな」

 心にもない台詞だった。

「止めとけ。弱々古市のくせに」

「わっかんねーよ? 実はエルヘブンの民かも……あー」

 古市はさっきからガシガシと何度も頭を掻いている。仕方がない。

「試してやるよ」

「あ?」

 大股で歩いて古市の前に立ち、右掌を相手に見えるようにして向けた。

 鞄は左脇に抱えたまま、足は軽く開いて、衝撃に耐えるようにする。

「ほら」

 まん丸に開いた瞳が、手から俺の顔へと順に動いていった。そして、大きく一息。

 

「なっ……げーーーーーーーんだよ、クソが‼」

 

 大絶叫と共に、小気味いい破裂音。拳から伝わるのは、電撃のような痛み。ずっとせき止めていた、怒りの痛み。

 真っすぐにぶつけられた想いが、とても好きだと感じた。

「どお」

 古市は真っ赤になった右手をぷらぷらさせながら聞いてきた。優しい俺はきちんと考える。

「んーーー、サンチョ」

「ヘンリー王子にしてくれよ! いっそパパス……つーかいった! なんで俺の方がダメージ受けてんの⁉」

「うるせー」

 さんざん騒いだ後、気まずそうに古市は項垂れた。

「………………悪かった」

 その一言には、放課後からあった出来事の全部が詰まっていた。古市は、怒りとか、もどかしさとか、これからのこととか、俺の、こととか、一切合切飲み込んでしまえるのだ。今回のことで、またこいつは強くなってしまった。その根性が心地いい反面、俺へさえも見せなくなってしまうのではないかと思うと――いや。

 どれだけ古市が強くなろうが、俺が止めてやる。

「とっとと帰っぞ」

 だから、あんま手間かけさせんなよ。