あずかっていろ、とだけ斉木は鳥束に伝えた。次の瞬間、するりと斉木の肉体と幽体は個々となった。指示を失ったボディは、鳥束の腕の中へ遠慮なく落ちる。重い、と文句を垂れる鳥束に対し、斉木は一瞥をくれてやるのみである。まだ言いたげなあずかり主を科学室に残し、斉木は天井から屋上へすり抜けていった。
放課後の学校とはいえ、この教室の前を人が通らない可能性はゼロではない。鳥束はとりあえず、扉から遠い窓際に移動した。そして、運んだあずかりものを丸い椅子に座らせる。違和感がないようにと、腕を机の上で組ませ、そこに頭を置いてまるで寝ているようにした。運動嫌いも相まって、一男子高校生を丸々動かすのは非常に骨が折れるものだった。実際、ふっと悪い声が聞こえたりもした。しかし、下手をやろうものなら、どんな罰が来るかと震え、彼は丁寧に完遂させた。
意味のない声を間抜けに伸ばしながら、鳥束は別の椅子にどっかり腰掛けた。足の長さがずれているのか、彼が身体を解す度がこがこと床を打った。
窓から見える空は紅と金で溢れかえっている。在るもの全てに長い影を落とし、それに気づいた者は大なり小なり暗い考えを想起させる。鳥束は、机に映った己の淡い幻に、多忙に経ってしまった時間を感じた。
(ほんと、疲れた)
今日は彼にとって良いことがひとつもなかった。急に呼び出されたと思ったら、斉木の都合によってあちらこちらに振り回された。気が休まることはなく、時には女子の前で恥もかき、挙げ句最後はひとりきり。元はと言えば、今し方消えた彼が引き起こした災難であり、彼は巻き込まれたに過ぎない。
(この借りは大きいですよ)
鳥束は天井にむかってそう毒づいた。
斉木はようやく眉間から皺を無くした。ようやく事件が終わったことを意味していた。二転三転と転がり続け、彼は己の不運を呪いさえした。皺の要因だった女生徒ふたりは、屋上のフェンスに背を任せながら、すっかり眠りこけている。よもや、数刻前まで自分たちの魂が入れ替わっていたなぞ思いつきもしないだろう。悪い夢だったと聞こえぬ耳に語りかけ、斉木は自分も戻ろうと床へ身を投じた。
解決すれば、次に思うのは自分の肉体のことだった。
(妙なことをしていなければいいんだがな)
初めてこの能力を見せた際、丁重にという注意も聞かず、顔へ落書きされたことを斉木はきっちり記憶していた。彼は、復讐どころか借りすらも一切覚えはないと言い張るだろう。本心か否かは、互いの知るところである。
ぬるりと天井から科学室へ戻った斉木は、上半身を机へ伏した自分の肉体と、それを隣でじっと見つめる鳥束を目に留めた。焦げ付くような視線にさらされた身体へ返ることを、斉木は渋った。これならいっそ、幼稚ないたずらでもされていた方がましだと、軽く舌打ちする。
(変な趣味にでも目覚めたか)
鳥束は危うく丸椅子から落ちかけた。まだ震える脚を力で落ち着かせながら、きょろきょろと周りを見渡す。斉木は鳥束の斜め上にて腕を組んで探知を待った。
「いた! あービックリしたもう。いや、変な趣味って何ですか」
(前に読んだ本であった。屍しか愛せない男が次々と女を殺していく)
両親からの歪んだ愛情で世間からずれてしまった男が、森で偶然発見した自殺死体をきっかけに堕ちていく。それを捕まえようとする熱血新人刑事とくたびれ元エリート。設定としては可もなく不可もなくだが、まあまあ面白かったと斉木は語る。
あらましだけ聞いた鳥束は顔を顰めた。
「げぇ、そういうアブノーマルなものはダメっスね。同じ動けないなら時間停止モノが」
(動けなくさせてやろうか?)
「ここで目覚めろ俺の新能力!」
停まれっ、と明確な殺意に向けて振られた右手は、空しく数珠を揺らすのみに留まった。遠くの烏の鳴き声が、緊張状態だった鳥束に弾むような笑いを誘った。そして暫くひとりでふざけていた。
「はーあ……。別に、そういう意図はないんですけどね」
鳥束の右手は次に物言わぬ肉体の首筋へと移動した。丁度、医者が喉を触診するように、ぐっと三本、指を置く。柔らかい肉が浅くへこんだ。斉木は余計に戻りづらくなった。
「さっきこうやって触ったんですよ。そしたら、意外とまだ温かいんだなって。よく刑事ドラマであるじゃないっスか。冷たくなってる、みたいな」
今も温かい。微笑を携えつつ平然と言う鳥束に対し、斉木は少時返す言葉を探した。やっぱり何かしてやがったな、人の身体を好き勝手に。そんな文句ならばいくらでも思いついたが、鳥束を突き動かす本心が極めて純粋な興味であったことが枷となった。幼子が親に抱かれつつ、初めて大きな動物に触るような、守るべき尊さに近い。それ即ち、斉木の愛情が非常に注がれやすい形だ。
絞り出すように斉木はことばを繋ぐ。
(たかが十分十五分程度だろ。冷たくなるのはもっと時間がいる)
「へえ、そういうこと小説で知ったりするんですか。あー、あれだ。鑑識? 検死?」
鳥束は、変わらず静かな血を感じていた。空いた左手は、自分の首に沿わせ、温度差を確かめているらしい。斉木はその様を、無邪気で、途方もなく残酷に思った。
(ふてくされる、驚く、冗談を言う、笑う。なんて幸せで人並みの反応だろうか)
斉木は窓ガラスに向かって腕を伸ばした。彼の突先は、透明な障壁を難なく通り抜け、金の光に一瞬で満たされた。
(だがその反応の発端は僕の「死体」だ。死体を重いとぼやき、他にはわからない存在と会話し、死を横にして心底楽しそうな笑顔になる。僕が、戻れるから)
先の小説の一片が斉木の脳裏に浮かんだ。
……女性の顔は美しいままだった。彼は声をかけることを恐れた。もし、とその滑らかな耳に囁けば、起きてしまうと考えたからだ。たった今、命の灯を失ったその肉体を……。
正反対の虚無を、斉木は今の鳥束から感じた。
(この孤独は、僕が生み出してしまった。学ばせてしまったんだ。よりにもよって、こいつに)
どけろ、と言えば、鳥束は条件反射の如く手をひっこめた。息を吸う真似をした後で、斉木はようやく肉体へ帰還した。そして、勢いよく立ち上がったかと思うと、ぐらりと倒れる。
石鹸の香り。鳥束がやっと脳から引き出せた短い一文だった。起立した斉木はそのまま隣に座っていた鳥束の方へ倒れ、両腕で彼の頭を抱きかかえたのだ。それは見事にすっぽりと腕の中に収まっていた。ほんの一瞬のことで、鳥束はただただ動揺するしかない。
「さ、いきさん?」
体重もかけられ、いささか動かしにくい口で、おずおずと鳥束は尋ねる。様子を見るために目線を上にと試すが、がっちり頭を押さえられ僅かに動くことすら叶わない。
(長く離脱していると立ち眩みが起こるんだ。暫くこうさせろ)
真っ赤な嘘であった。本来ならば、直ぐに走れる程に体調は整っていた。淡々とした物言いには、詮索させまいという圧が込められていた。
斉木は、ゆっくりと鳥束の頭に顔をうずめ、眠るように目を瞑る。途端広がる闇は、彼を余計な迷いから救った。
「あー、えっと、そうだったんスか。知らなかった。どうぞ」
時が止まったかのような静寂だった。どこかおかしいような、と思いつつも、抱きしめた当の本人すら整頓のついてない意図が、彼に伝わる筈もなく。
暫くして、すん、とつむじのあたりで斉木の鼻が鳴った。鳥束はそれに熱の籠った正解をみた。だが、俄かには信じられず、その可能性に若干の恐怖すら感じた。何とか意識を別に向けようと、違和感のない話題を探す。
「そういや、さっきの女の子たちが解決したか聞いてなかったっスね。終わった気でいました。どうだったんですか?」
待てども期待した返答はない。違和感のある間。そんなことくらい察しろという意味かと捉え、鳥束はにわかに心がざわついた。一番の理解者は、些細なことでも理解者でいたかった。それが、斉木が苦労した行動に対するものならば猶更。よもや、自分が本当に『愛されている』とも知らずに、彼は反省する。
「……あの、お疲れ様っス」
鳥束は結局思考を放棄した。眩暈が終われば元の鞘に収まる。そう信じて時間の経過を待った。単純な思考に舵を切ったことで、鳥束の耳にはようやく正確な音が入り、肌には体温を感じた。
(心臓の音だ。だんだん元の速さになってる。熱い。血が巡っている体だ。斉木さん、やっぱりアンタ変な人だよ。さっきまで、確かに――)
迷子であった両手を、鳥束は斉木の背中に回した。よりしっかりと支えられるように、と思う彼の裏には、確かな加護欲があった。先程感じた恐怖も許容し、安直が故に申し訳なかったとすら思いながら。愛情ともとれるその思考を、鳥束は斉木に分かってほしいとも思ったし、分からなくても構わないと思った。奇しくも斉木が鳥束を抱擁したいと思った瞬間の思考とよく似通っていた。仮令何も伝わらずとも、ふたりはそれぞれに満足であったが、結果は両想いに終わった。悲しいという一点だけで、長く交じり合った。
「斉木さんが幽霊になったら、俺が成仏させてあげますから」
あ? とだけ鳥束に返ってきた。
星が静かに夜空で息づき始めた時刻。ひっそりとした住宅街に、ふたりの薄い影があった。先ゆく下駄のリズムは、あまり早く帰りたくないように聞こえる。そんな彼の、数分ぶりの台詞だった。
「ありえない話じゃないっしょ? 死相見えてたし」
(万が一にありえたとしても、余計なお世話だ)
経緯を知らないとはいえ、いいように使われた思い出のある斉木には良い提案とは思えなかった。寧ろ知っている分、蔑ろにはされないにせよ、ただでは済まないであろう、と。異なる軸の可能性も知らず、鳥束は楽しそうに続ける。
「遠慮しないでくださいよ。一応、仕事みたいなもんですし……それに、俺と斉木さんの仲じゃないっスか。そうだなぁ、俺に憑依させてコーヒーゼリー食べたらとか? あっ、あんま高いのばっか要求しないでくださいね」
(遠慮しなくていいんじゃないのか)
「ウチも厳しいんですよ」
(適当言いやがって。そもそも、記憶が消えるのだから、お前のそばにいるとは限らないだろ)
紫の瞳が宙をなぞる。一、二、と軽く流すだけでも簡単に亡者を捕らえることが出来た。記憶も、信念も、欲もない。現世にいながら、現世と相容れない存在。それでも彼らは楽しそうに生きている。
「んー。まあ」
からり、と鳥束は振り向いた。御仏を思わせる顔がそこにあった。
「探しますよ」
――寂しいでしょ。
その音は夜空には届かず、斉木の脳裏のみで消えた。
(どっちが)
吐き捨てるような、一言だった。