何県から来た、何某さん。鳥束が彼について覚えている情報の全てである。兄弟はいたのか、好きな季節は何か、血液型は。もう知ることは無理である。碌に交流したこともなかった彼を、街のど真ん中で鳥束は思い出していた。
中学時代。教室の教卓前に追加された空白の机の存在に、鳥束のいる教室は朝から騒めき立っていた。どうやら男子だと流れ着いた噂によって、女子の声が幾分大きい。
ガラリと扉が開かれ、日直が号令をかけた。さて、と先生が一呼吸。
「気づいていると思いますが、今日から皆さんの仲間がひとり増えます。入って」
ゆっくりと彼は先生の近くに寄った。そこへ歩くまでの間に、女子生徒達からは残酷な品定めが完了していた。先ほどまで微塵も興味のなかった鳥束は、そんな空気を察してようやく彼に興味を示した。
(痛そ)
彼は下唇をぎゅっと噛む癖があった。その日も危うく血が出るかと思われるほど強く噛んでいた。目元を隠す無造作な前髪。神経質そうに何度もさすられる腕。鳥束含め仲間たちは、この出会いは劇的にはならないだろうと諦めた。大小の問題すら起こらない教室にて、彼らは誰とも言わず刺激を求めていた。転校生という文字は頗る食指を旺盛にさせた。だが、期待が外れた以上、変わらず、今のままでいてほしいと彼らは思った。そして、彼からはそれから何もアクションがなかったため、あっというまにひとりになった。
変化は四日後。家庭科の授業にて。簡単な料理を作るということで、生徒各自にエプロンと三角巾を持ってくるようにと指示が出ていた。家庭科室で先生が来るまでの僅かな時間、誰かが彼がいないことに気づいた。ねえ、もしかして、を発端に一気に教室内の共通認識となった。多分もう少ししたら、が延長されるばかり。うだうだしている間に、先生がやって来た。
「さあ、くれぐれも怪我無く、楽しくやりましょう」
溌溂とした言葉は、あるものには事実を忘れさせ、あるものには不安を抱えさせた。いくつかの班に分かれての調理実習が始まった。
軽々十分が経った。
「この班、もうひとりは?」
死刑宣告のようであった。先程まで卵の殻でわいわいと騒いでいたはずのその班は、びたりと静かになった。他の班も静寂になる。件とは別の班の鳥束も、菜箸の手を止めて、これから起こる憂鬱に耐える覚悟をした。
別の生徒が彼を捜索している間、家庭科室では先生による尋問が始まった。どうして授業が始まる前に探さなかったのか。普通は気づくものでしょう。その質問に、彼がいるはずだった班の班長はこう言った。
「気づきませんでした」
その一言で、教室はまた冷えた。これほどチャイムが望まれた時間もなかった。
結局、彼は教室にいた。彼はその後、一限分の時間を使って先生と共に過ごした。偶然にも話を聞いた別クラスの生徒からうわさが流れてきた。
「なんかさ、エプロンと三角巾を忘れたから行かなかったんだって。意味わかんなくない?」
この日から、彼はひとりから孤独へと変わった。
「すごく落ち込んでいる霊がいる。元気になってほしい」
学校に住み着いていた霊から、鳥束はそう聞いた。霊はだいたい優しくて能天気。そう思っていた鳥束にとって、好奇心をくすぐられる台詞であった。
霊は学校の屋上にずっといるとのことで、早速放課後鳥束は顔を出してみた。件の存在はうつろな顔で空を見ていた。
「噂になってるよ、アンタ」
虚ろな目のまま、霊、もとい男は振り返る。生きている人間に話しかけられた筈が、特にその感動はないらしい。そもそも、男にとってはどうでもよかった。だが、鳥束はそれに気づかず、俄かにムッとする。
『知っているよ。でも、大丈夫さ』
「大丈夫じゃねーじゃん」
『もういいんだ。どうだって。もう直ぐ消えるんだ、それでいいだろう』
男は微笑んだ。
ここで深く理由を聞くことは間違いだと鳥束は思った。男の言う通り、消えるのであればこれ以上はないはずだった。
(消える、別の場所に行くのか?)
成仏の可能性は早々に切っていた。
『もう帰る時間だろう?』
「あー、うん」
特に何が出来るわけでもなく、鳥束はその日屋上を去った。その帰り道は、濃い紫が空を染めていた。
数日後。鳥束は、学校にいる霊たちが徐々に暗くなっていくのを肌で感じていた。挨拶をしても、曖昧な返事。校庭に咲いた綺麗な花にも、一切姿がない。
黒板の退屈な計算式を無視しながら、鳥束は考える。
(きっとアイツのせいだ)
『悪霊』と同じように、陰湿な空気が全体に広がっていく。幽霊は優しいから、尚のこと影響されやすいのは鳥束も良く分かっていた。このままでは、仲のいい霊がどこかに逃げてしまうかもしれない。
鳥束がチャイムを待っていると、転校生の丸い背中が目に写った。彼も彼で、ろくに授業を受ける気はないらしく、消しゴムを指先で遊んでいた。つと、転がしすぎた消しゴムが床に落ちた。彼はちょっと迷って、拾おうと手を伸ばした瞬間、大きな音が教室に響く。彼の筆箱が、伸ばした手に当たって派手に落ちたのだ。
強い緊張であった。
「遊んでいるからだぞ」
先生がどこまで知っているかそう言った。鳥束はこの早くなった鼓動が、音に驚いたからか、それとも他の要因かが分からずにいた。だが、彼がまた、下唇を噛んでいることだけを確信していた。
教室の端まで飛んでいってしまった彼の蛍光ペンを、拾う者は誰もいなかった。
放課後、屋上に変わらず男はいた。
触れもしない柵に肘をかけ、ぼんやりとグラウンドを見ていた。
「悩みがあるなら、聞くけど」
男はそれを聞くと顎をかいた。
『私を助けたいのかい?』
「……アンタ、他の幽霊の迷惑になってんだよ。生きてる奴しかできないこともあるだろ」
『そうかもね』
男の指が何かを指す。鳥束はぎくりと胸を刺されたように思った。その先には、転校生の彼がぽつんといたのだ。
『私はあの子の守護霊だよ』
「は……?」
守護霊と人間が別の場所にいること。鳥束にとってはそこまで稀な事象でもない。それよりも、彼の、という点で大いに慄いた。
男の目には涙があった。
『元をつけた方がいいだろう。初めからそうだ。そんなに護りたいと思う気が不思議と起きなくて。そうしていたら、あの子は取り返しのつかない所まで行っていた。でも原因は私だけじゃない。あの子の両親が元々……根深すぎた。芯の芯まで腐敗してるんだ。あの家は』
「何言ってるかわかんねーよ!」
『私を助けたいのかい?』
数分前と同じ言葉。
『君には無理だ』
男は柵をすり抜け、そして、頭から落ちていった。
鳥束は無意識のうちに、下唇を強く、強く噛んでいた。血の味が、口いっぱいに広がった。まるで、彼のようだと気づいた瞬間、ただ、嫌だと、そう思った。
(いいことして、いい気分だな)
斉木は鳥束に言った。
遠くには、幸せそうな鈴宮陽衣と佐藤宏が一緒に歩いている。鳥束の目にだけ、心を入れ替えた守護霊もいる。
その後、彼はどこかにまた引っ越した。クラスではひっそりとお別れの色紙を書いたのみで清算された。当時の鳥束は、男の言っていた『もう直ぐ消える』がどんな意味かを真剣に考えた。守護霊が消える、その場所から引っ越す、成仏、そして。
ここで思考は止まっている。否、考えたくないと鳥束は思った。彼は関係の無い人間で、自分がどうにかできる問題でもない。あんなヤツの責任なんて――
(全然、いい気分じゃない)
彼の行方は、誰もわからない。