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月の光

 

「明日から宇宙に行く」
 ウチュウ、のところで丁度湯沸かし器が音を立てたので、ざまあみろという気持ちだった。
 湯呑にまず湯を入れる。葉は昨日家から届いたばかりの高級茶葉。青々とした薫りが、今日の朝によくあう。いい日になりそうだ。
「正確には月なんだけどさ」
「ほお」
 テレビのニュースでは図ったようにここ数日の異常な満潮・干潮について語られていた。十代は肩を僅かに動かした。それを逐一指摘して、行く理由が引き出せるほど、こいつの背負う責任は安いものじゃない。腹立たしくもあるが、いちいち怒るのもお互いに悲しくなるだけだ。だから、俺はもう言わないことに決めた。
「石とか持ち帰ろうとするなよ。人様の土地の場合があるからな」
「へへ、しねーよ」
 ガラスの急須には、じわじわと黄緑が詰まってきた。頃合いだろう。
 適温のお茶がふたつの湯呑に注がれていく。始めは薄く、終わりにつれ色が濃くなる。奴のほうを少し薄めに、俺はうんと苦いくらいがいい。
「宇宙ってさ、広いんだぜ」
「知ってる」
「ネオスで限界まで行ってみてーな、いつか」
 いつになく浮かれたセリフ。その目は青い空の上、宇宙を見ていた。能天気な奴だ。この期に及んで楽しもうとしてやがる。どれほどの危機かは知らないが、案外つまらない事なのかもしれない。
 俺もお茶をすすりながら、窓の外を見た。奴が明日行くという月は、見えない。
「あとさ」
「あん?」
「月から『好きだーっ!』て叫ぶやつやっていい?」
 は?
 宇宙が楽しみだからって、どこまで浮かれてるんだこいつ。叫ぶやつってなんだ。月に行った時のお決まりなのか? 夕日に向かってバカヤロー……。というより、宇宙で音が届くわけないだろ。空気がないんだぞ。いや、それより、それよか。
「直接言え、バカ」
 まだまだ言い足りなかったが、こうして目を合わせてしまった時点で俺が折れてやるしかなかった。俺の怒りも、動揺も、理論も、全部全部分かってる顔だ。ああ、畜生。
「直接言わないのがいいじゃん。万丈目、そういうの好きだろ?」
 十代はそのまま笑った。

 数日後。俺は長引いた収録からやっと解放された。外に出れば、すっかり夜が深まっていた。送迎の車に乗ろうとした直前、引っ張られるかのように俺は頭を擡げた。小さく輝く満月があった。ああ、と思い出していると、月から何か光が伸びていた。疲れによる見間違いか? それにしてはやけに見慣れた、やさしく、慈しむような銀河の光。
「バカなやつ……」
 これで連日の天変地異のニュースも落ち着くだろう。いろんな専門家があーだこーだ言うのも終わりだ。そう思うと、少しは褒めてやってもいいのかもしれない。
 ――直接言わないのがいい。声がフラッシュバックする。
「返してたまるか」
 運転手が一向に乗らない俺を心配して車を降りてきた。疲れているだけだ、と一言添えて、乱暴に乗り込んだ。このまま寝てしまおう。月を見ないように。