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陽炎

 

 

 お盆を機に実家へと帰ってきた。家族は久しぶりに顔を出した僕をとても嬉しそうに出迎えてくれた。はしゃぐ弟に背を押されながら半年ぶりにお邪魔した自室は、昔のままに残されていた。いっそのこと物置にでもすればいいのにと思いつつも、このくすぐったさが心地いい。直前まで迷ってはいたが、やはり来てよかった。

 日も高くなり始めた頃。玄関のチャイムに起こされた。母の愛想のいい声が僕に二度寝を許さない。大きくなって……暑いですし、お茶のひとつでも……いいえお構いなく……。そんなお約束の交流と並行して、僕はのそのそと着替えた。会話が終わってから部屋を出ようと思ったが、コップに氷を入れる音を聞いてすっかり諦めた。
 玄関の段差に座っていたのは、近くの寺の和尚さんだった。僕の姿を認めると、飲んでいた麦茶もそこそこにそれは丁寧な会釈をされた。こちらもぎこちなく返す。あら、この子今起きたんですよという母の言葉は笑ってごまかした。話題が僕自身のことに移る前に退散しなければ。機会を見計らっていると、ふと、半開きになった玄関の扉越しにもうひとりいることに気づいた。
 年端もいかない、小さな男の子。たっぷりとある髪を白いバンダナで押さえ、はねた毛はとても柔らかそうだ。作務衣の上着の紐を手でいじりながら、あどけない表情で空を見ている。
 ――いや、空ではない。
 少年の目線の先に何かがいた。正確には、「誰か」かもしれない。寺が近いこととの関係は不明だったが、僕にはそういうものが僅かながらに視えた。本当に微々たるもので、いると思われる場所の景色が陽炎のように歪むのだ。墓場や、病院に行くと沢山みえることに気づいた時、僕の中でひとつの結論が出た。幸い、何年もすれば意識下に追いやれたし、害がないことも経験で分かっていたので、今日までそれほど悩まずに生きてこられたのだが。
 僕は冷や汗をかきながらも、歪みに夢中になっていた。こうして真剣に視るのも何時ぶりか。やはり、不気味だ。楕円に近い形で、丈は僕と同じくらいだろうか。地面から十センチほど浮いたところで、じわじわと景色を変えている。と、それが僕のほうを向いた。そう直感したのは、まるでこちらに顔を向けたかのように楕円上部の歪みが一気にぶれたことと、少年もそれと同時に僕を見たからだ。不味いと思いながらも、僕は紫の瞳に吸い寄せられた。澄んだきれいな紫。
「零太」
 和尚さんの低い声が、僕と少年をはっとさせた。おずおずと少年が中に入ってくる。そして、骨ばった手から差し出された麦茶のコップを受け取り、一口だけ飲んだ。
 和尚さんは何度もお礼を言いながら帰っていった。忙しい時期なのに悪いことしちゃったかしらとこっそり反省する母へ、僕からかけられる言葉はなかった。

 弟にせがまれ、ひとりでせっせとお菓子を買いに行った帰りのこと。その日も存分に暑かった。かわいい弟のためと出かけたのはいいものの、限界かもしれない。財布が厳しかろうが関係なしにどこかで涼むべきだった。家まであと少し。そんな僕を、涼やかな音が止めた。正体は、寺に植えられていた菩提樹だった。輝く葉が、風で優雅に踊る。なんとも夏の一幕らしい光景に心奪われた。
「ねえ」
 肩が跳ねる。声が聞こえた方向を向くと、そこにはあの少年がいた。その顔からは、感情が読み取れない。
「みえる?」
 ああ、やっぱり。僕は確信した。この少年は完璧に視えている。そして、恐らくは意思疎通も可能なのだ。そうじゃなかったら、少年の周りに寄り添っているあの二つの陽炎は何だというのだ。
 僕は頷いた。それが正解か否かは後で考えようと思った。少年は、肺いっぱいに息を吸うと、蘇ったかのようにみるみる頬を紅潮させた。
「こら零太。雑巾がけサボって何してんだ」
 竹箒片手に近寄ってきたのは、まだ若いお坊さんだった。少年は彼に見えないようにして、艶やかな舌をちろりと出した。
「お兄さんすいませんね。引き止めちゃって。おい零太。まさかこの人に抱きついたのか? 女の人と間違えたのか?」
「いいの! ヘンなふうに言ったら怒るから!」
「はぁ?」
 少年は笑いながら走って本堂へと戻っていった。どこか狂ったような、甲高い声が静かな寺に響く。一体何がそんなに可笑しいのだろうか。僕にはわからない。
 若いお坊さんは困惑しながらも僕にこう語った。
「あいつ、ある日から急に人によく抱き着くようになったんですよ。前は男女関係なかったんですけど、最近は女の人ばっかり狙うようになって。……まあ、エロガキなんですよねぇ」
 今まで直面してきた少年の姿。親しいと思われる人物からの評価。感じる落差に眩暈を感じた。七つまでは神の内、というが、今何歳なのだろうか、とも考えた。

 夢を見た。知らないような、昔行ったことあるような場所。やがて、僕はここを火葬場であると思った。白い箱が置かれていて、母や、弟、友人が泣いている。僕も泣く。悲しい、あんな良い人だったのに。病気だなんて。ふつふつ湧き上がる暗い感情。
「ねえ」
 振り返る。少年だ。寺の人間なのだから、此処にいるのは当たり前だと思った。澄んだきれいな目だ。あれは今この状況を理解しているのだろうか。
「この人でしょ」
 怒りが頂点に達する。少年のそばにいたのは間違いなくあの人だった。顔は見えないが、そう思った。安らかに眠っていてほしかったのに。自分の中で漸くけじめがついたのに。人が、人を、何だと。僕が言わなければ。きちんと叱ってやらねば。こいつが悪いのだ。きれいな目をしたこいつが悪いのだ!
 だが手を伸ばそうとも届かない。声すらも出ない。
 少年はまた笑った。空に届くように。天に聞こえるように。
 ――ここで目が覚めた。最悪なことに、夢は頭から離れなかった。悪夢であるとしかいいようがない。僕は僕自身に宣告されたのだ。お前は奴を恐れている、と。頭痛が酷く、体が重い。このまま今日はずっと家にいようか、と考えたが、母が僕の名を呼んだ。

「アンタに用があるって。いつ仲良くなったの?」
 玄関先には、最も会いたくない相手が後ろ手を組んで待っていた。まるで初恋の子にようやく出会えたような喜びが、満面に溢れていた。対し、僕は正反対だっただろう。
「ほんの十分だけ。それだけでいいから。来てください」
 小さな頭が下がり、その四半にも満たない拳がぎゅっと握られる。母が近くにいた手前、というのもあったが、本当に突き動かされたのはその必死さだった。僕にとっては絶望でも、少年にとっては希望だと気づいたからだ。だから、了承してしまった。

 皮肉なほどに暑い。蝉の鳴き声が頭に悪い。
 少年の歩幅は狭いが、油断すると追いつけないくらいには速かった。僕はただ涼しい風が欲しかった。
「ばあちゃんにね、言ったら、会いたいって。じいちゃんも」
 途切れ途切れの高い声が更に響く。喉も乾いてきた。
「初めてなんだ。うれしい。すごく」
 現実なら、手を伸ばせば届く。声も出る。
「みんな、優しい人ばかりだから、全然、怖がらなくても」
 限界だった。
 強引に掴んだ肩は、そのまま割れるかと思うほどに薄かった。少年は怯えていた。夢で見たより、ずっときれいな目があった。
 僕は口を開いた。
「嘘なんだ! 僕にはみえないんだ。君が望んでいるものなんてわからない。違うんだ。あの時頷いたのは、嘘で。だから、もう二度と、違う。ごめん。ごめんよ。僕は、何よりも君が……!」
 支離滅裂で乱暴で、暴力的な話し方だった。肩がゆっくりと僕の手から離れていく。そして、少年は逃げていった。

 数年がたった。こうしてお盆に実家に帰る度、僕は寺の前を通らないようにしていた。意外な再会は、皿洗いをしていた母の言葉からだった。
「お寺の、紫の髪の子わかる? あの子、もう少しで引っ越しちゃうんだって」
 覚えてないとでも言うように、僕はそっけなく返す。だが、内心では心臓の痛みを感じていた。
「まだ高校生でねぇ。それに、二学期でしょ? そんな中途半端な時期に。不思議ね」
 話題はそこまでだった。流れる水の音を聴きながら考える。確かに不思議だ。きっと、何か意味のあることに違いない、と僕は確信した。少年、いや、彼は特別なのだから。
 知らぬ地にいるであろう人に、もしかしたら人ならざる者に伝えられるとしたら。どうか、彼を幸せにしてやってくれないか。無責任で、臆病で、非力な僕からの、わがままなお願いだ。